昭和50年 月日不明 朝の御理解 16日前後 テープ№50-125B面-3
大坪かよこ
御理解第18節
此方のことを、神、神と言うが、此の方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受け始めである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。
途中から
ね、私が昨日、その子供達の心行ぶりというものをここから見せて頂いてです、まあいうなら子供にはでけ過ぎと、けれども神様をこげんやって拝みさえしよりゃ、もう学校ん勉強でんなんでん、もうせんでんよかちゅごたふうになりどんせんじゃろうか、と思いましたです。私夕べそんほんとに、信心ていうものは決してそんなもんじゃ無いです。
拝んでさえおきゃ、おかげは向こうから飛んで、ね、棚から牡丹餅のような事を考えたっちゃでけんです。
そういう心行をさせて頂くようになって心がです、ね、ほんとに例えば有難い心というか、清まる心というか、そういう心で勉強に取り組まなきゃならんのであり、そういう心で家業に取り組まなければならん。だから、いままで二つしかでけなかったものが、三つでけるようなおかげにもなってくるのです。
今まで五時間働きよったのが、そういう心で働くから、ね、六時間もそれこそ、時は徳なりといわれるくらいですから、その時をいよいよ大事にしなければおられなくなってくるのです。
ところがややもするとです、ただ拝んでさえおれば、ね、お参りさえしておれば、お取次頂きにお願いさえしときゃ、こちらは楽にしておって、おかげが頂けるといったような、私は考え方がです、あの、いまの子供達が一生懸命心行しとるのを見てからね、こげんして一生懸命やって、十二時ごろ拝んでおる。
こりゃもう、こんなこっちゃ、朝もとても起きりゃするまいし、学校に遅れるような事がなかろうか、も、こがしこ一生懸命ご祈念しよるけんで、もう勉強は、もうざーっとしときゃよかちゅうごたふうな心が起こりどんせんじゃろうかと言うような気が致しました。
ね、もちろんそういうことがあってはなりませんけれどもです、そういう傾向があるです。
先陣の熱心な人は、もう仕事はなげうってしもうて、ね、神様、神様というような生き方をするような人もあるです。
それは嘘です。それこそ家業の行にいよいよ、今まで五時間働きよったのは、六時間働かせて頂くことが有り難いというようになってこなければ、ほんとのこっちゃりあません。
わが心が神に向こう、ね、そういう有り難い心で仕事に向かうならば、もうそれは神に向こうたのと同じです。
生神とはここに神が生まれるということであってと、私共が無条件に神様へ向こうた時、無条件で御用させて頂いたときに、頂けれる心、即、私は生神の誕生だと思います。
ね、その誕生された生神様をいよいよ育てて行こうというのが、精進であります。
ためにいうならば最近言われますところの大祓い心行といったようなことはです、ね、頼まんならんからじゃない、日に十巻なら十巻、大祓いをもう無条件で、もうただ、ご神前が離れたくないくらいにありがとうなる、その心行を楽しみにさして頂く、そのひと時だけでも、わが心の中に神が生まれられる状態になるのです。
有り難いな、もうこれはわけは分からんなりに有り難くなるのです。
無条件だからです。そういう、私は稽古を積んでいかなければいけません。
みんなも、此方のことを生神生神というけれども、ね、みんなもそのとおりのおかげが受けられると仰せられるのは、今日、私が皆さんに聞いて頂いたような、生き方をさせて頂いて始めて、そのとおりのおかげが受けられる、私共も生神を目指していくことができる、ね、ね、そしてこれがなるほど生神の誕生であろうかと自分の心にそれを感じさせてもらえれる、ね、これが生神の印、いうならば、ね、我が身は神徳の中に生かされてある、その神徳と、ね、私どもが一つになる、ね、そういう私は状態を、生神の状態だと思います。
ですからここのところの、ね、誰でも生神様になれるんだ、いんやぁ、私達はもう生き神様までならんでんよかと、まぁ、いうような人が多いですけれども、なるほど生神というようなところまではなかなか、私どもが、まぁ一生かかってもできることじゃありませんでしょうけれども、それに向かって進んでいくという生き方をさせて頂くときにです、ね、我が身は神徳の中に生かされてあり、という喜びに浸らせて頂くことができる。
今まで感じ得なかったことの中に、ね、そこに神様の、いわゆる御恩恵の中に、私どもがひたっておる喜びをまた感じていくことができる。
ね、それには、私どもが神様の働きに参画させて頂くということは、そのまま私どもの働きに、神様が参画して下さる、それを、昨日、大和さんの御用の例で聞いて頂きました、ね。
私どもが参画させてもらうということは、ね、そこには、神様が参画してくださっておるという事実をです、ね、日々体認して、それを分かりそれを自分で感じていく生き方。
私どもが、いうなら、そういう神様のお喜びいただけるような御用に無条件、ね、または、真心をもって、参画さしていただくときに、ね、神様が私共の手になり足になるようにして、今日の大和さんの例ではないですけれども、ね、人を使わしめておられる、お使い回しをいただいておる。日頃なら二日間かかったところを、昨日は半日で済んだというようなおかげをいただいておる。
神様が手をかけて下さった。神様が参画して下さってある。
ね、だから私は、合楽ということはです、神様と氏子とが拝みおうていく、はぁ、ご苦労様でしたと、私どもが神様にお礼を申し上げると、神様がまた氏子に、はぁご苦労さんだったねというて下さる、お礼の言いあえれる世界を合楽というのです。
ね、合楽を目指すということは、だから、そのままです、ね、生神を目指すということにつながるです。
ほんとに我と我が心が拝みたい、我と我が心が拝める、・・途中切れ